
2017/05/某日訪問
埼玉県の東は小倉城、西は青山城のある山稜。その中間あたりに物見山と呼ばれる山が2つある。今回記事にするのはそのうちの1つの物見山。小倉城寄りの東側にあるほうである。何度かこの稜線は縦走しているのだが、物見山は遺構が不明瞭なので訪問したとはいっても通過した程度。
ときがわ町の埋蔵文化財マップを見ていると44番の「物見山遺跡」の座標が尾根筋以外にもあり、南側には46番の「五明畑遺跡」もある。前者の時代区分は戦国だけだが、後者は戦国以外も多岐に渡る上に地形図を確認すると城跡らしい地形である。これは再訪してもうちょい深く見学しないといかんな、ということで再訪した。
その日は武蔵嵐山駅から徒歩で小倉城へ行き、仙元山まで縦走、小川町駅から帰宅というコースだった。小倉城の記事はネット上に多いのでここでは言及しない。
小倉城南西から林道に出ると仙元山方面への山道があるので、その道をひたすら登る。
3つ目ぐらいのピークが44番の物見山遺跡の1か所である。登山道はピークを通らないのでピークに行くには登山道を外れる必要がある。
ピークは若干土塁っぽく見えなくもない。遺構があるとしたらこれだけある。以前も来たことがあるが、土塁とは私には断定できない。ここだけ土塁作ってもなぁ、という感じではあるが物見ならこの程度でよいのかもしれない。
登山道に戻り、西に進む。
次のピークへの急坂。44番の物見山遺跡のもう1か所へはこの急坂を伝わない。
登らないで左を見ると埋もれつつあるが、道がついている。ピンボケ写真で申し訳ないが、道である。
南へ進む道で、西に見える斜面が44番の物見山遺跡であるのだが、ただの斜面にしか見えなかった。段曲輪的なものは見えず。
先に進むと平場なのだが、写真を撮っていないという悲劇。平場ではあるのだが、埋蔵文化財マップと照合すると範囲ギリギリなので曲輪として扱ってよいのかは微妙であった。
その平場を南下するときに段差があった。次の写真はその段差を下りて振り返ったところである。
切岸と捉えることもできる斜面が横に続いてた。ここまでが44番の物見山遺跡と呼べそうな範囲であった。
ここから先も辛うじて道がある程度。
だったのだが、急に開けた場所に出た。
下草が急に減ったし道幅が広い。なんなら車両が折り返せるような広さだな、と思った。少し進むと車輪でできたわだちのようなものが。かつてといっても数十年前くらいの作業道だろうか。
その道は歩きやすく、徐々に下っていく。ある程度下ると46番の五明畑遺跡の範囲南端辺りで足を止めた。道は山の麓まで続いていそうだった。
46番の五明畑遺跡に踏み込むと段曲輪のような地形が出現。ただし杉林だったので植林時の造成の可能性もある。さきほど下った幅広な道が植林時に使った道だとしたらいろいろ合点がいく。
段曲輪を登り、五明畑遺跡のピークへ。お社跡のような石があった。
瓦のようなものもあった。
ピークは平場になっていた。44番の物見山遺跡のピークよりは広い。
樹木の種類も多い。杉林は斜面だけだったので、植生が異なる。この平場は植林とは関係ないかもしれない。
竪堀や堀切があれば城跡としてもよいのだろうが、いずれも見当たらなかったので私には城跡とは断定きず。
この後登山道に戻り、もう1つの物見山、青山城などを見学して仙元山から下山した。
物見山遺跡位置1
物見山遺跡位置2
五明畑遺跡位置