
2018/09/某日訪問
続日本100名城スタンプラリーにも参加しており、9月の連休を利用して遠征。島根県の浜田城の後はその日のうちに鳥取市へ移動、という日程。浜田から鳥取の間で寄れそうな城跡に寄ろう、ということで特急で行けて駅近の城跡を探してみたら大田市の松山城がよさそうであったので訪問してきた。石見松山城とでも呼べばいいのかな、と思ったが江津にも松山城があるので、そっちも石見松山城である。大田市の松山城でよいのだろう。
尚、当日は曇りで山の中では光量が足りずピンボケ写真が多かったことを先に記しておく。癖でシャッター押したらすぐに動かしてしまうのである。自分では十分待ったつもりなのだが、停止時間が足らないことが多い。特に曇天。また、虫(主に蚊)が飛んでいるときはシャッター押して静止している間に刺されることが多く、刺されるのが嫌なので静止時間が短くなりがち。
松山城に話を戻す。ネット上に訪問記録がひっかからない城跡である。例えば、サービス終了した無料ホームページのサイトでかつて記録があったかもしれないが、その場合は検索にひっかからないのでわからない。私の知らない別名がついている場合もひっかからないのでわからない。
当初は特急で浜田から大田市に行くつもりだったのだが、特急の合間の在来線があったので在来線で大田市駅到着。浜田駅始発だったので確実に座れてよかった。ロッカーが利用できたので余計な荷物はロッカーにつっこんで軽量化。余談だが、大田市は「おおたし」だと思っていた。「おおだし」だと知ったのは今回の旅程組む際だ。
大田市に降り立ったら駅前の通りに人だかり。屋台の群れができている。何かのイベントのようだ。しかし、私には無縁なのでぐぐるまぷに案内されるまま歩く。
松山城遠景。アスファルトの道で結構な高さまで登れるのだが、アスファルト登山は割としんどいので、登りなら山道のほうが好きだ。
暫く登るとカーブミラーがある。そのちょっと先に踏み跡とも獣道取れる道がある。そこが入口だ(写真の真ん中あたりの土が露出している箇所)。
その道。
堀底道となる。
堀底道を抜けると山の鞍部だ。目印となるのは来た道である堀底道。同じ道で帰るならば周辺の景色を目にやきつけるなり写真を撮っておくのがよい。
鞍部から西に進めば松山城だが、ぱっと見踏み跡見つからず。若干の藪だが西にまっすぐ進むことにした。
草木が邪魔で歩きにくいな、と思いちょっと北側、尾根の端に移動したら若干草木が減ったので歩きやすくなった。松山城東の斜面は急こう配で、縄張り図を見ても遺構はない模様。北側の尾根には段曲輪があるようなので、そのまま北の斜面を目指して歩いた。
そして、段曲輪の1つに到着。縄張り図にはこの写真の段曲輪より下方にもいくつか段曲輪が連なっているようだが、目視ではわからなかった。
下りればわかるのかもしれないが、図面を書くわけでもないので下りないで探索続行。堀切や竪堀があれば下りたところだが、ないようなので下りず。写真は見下ろしたもの。
段曲輪から主郭を見上げたところ。
そして主郭。狭いので物見的役割では、と『石見の城館跡』には記載されていた。現状山林だが、現役のころは見晴らしがよかったであろう。
主郭南側。2段の段曲輪になっているようだが、2段目は不明瞭だった。写真は1段目。
1段目から2段目を見たところ。
西の段曲輪に降りて下方の曲輪を目指す。曲輪の面積的に縄張り図でいう(2)の曲輪が主郭の役割を果たしていたであろう。
主郭西下の段曲輪。
段曲輪南側に(2)曲輪に続く竪堀。割と不明瞭である。
そして(2)の曲輪はごらんのように笹薮。
やる気を削がれる笹薮で、主郭にいたときに獣が動く音も聴いていたので、視界が悪い状態でこれ以上つっこむのは危険だと思い始める。
(2)曲輪から下に続く道。この下も藪のようだ、ということでここまで探索して撤収。
帰り道に写真を撮ったつもりで忘れたが、縄張りの西の方(標高低い方)は、別の場所からとりつけそうだった。大田市は松山城の北側にある段山城、岩山城あたりが気になるのでそのうち再訪するかもしれない。その際は気になったとりつきから探索してみるつもりだ。
松山城跡位置
松山城跡とりつき位置
松山城跡別のとりつき位置(予想)
参考文献: 『石見の城館跡』 縄張り図記載
GPS ログ
2 thoughts on “松山城 (島根県大田市)”